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overture (忍・諒)

『今日から本格的な夏休みのスタートです。現在東京駅はご覧の様子で――』
目の前に置かれたテレビの中では、リポーターが生中継で東京駅の模様を伝えている。
8月12日の今日、東京駅は例年通り帰省する人々で溢れているようだ。
けれど自分には、そんなことはどうでもよくて。
冷房の効きすぎた部屋は少し寒くて、諒はベッドの上で小さく体を丸めた。
近くに転がっていたエアコンのリモコンを掴んで停止ボタンを押し、テレビの画面をじっと見つめる。
新幹線のホームで大きな荷物を抱えた家族連れや旅行客が、リポーターのインタビューに答えている。彼らは「乗車率120%」という言葉にうんざりした表情をしているけれど、それでもどこか楽しそうだ。
諒はテレビのリモコンを手探りで探し当て、即座に電源を切った。
途端に部屋はしいん、と静まり返る。
まるでなにもかも、なくなってしまったかのように。

――本当にそうだったらどんなにいいか。
すべてのものから解放されるなら。

(くだらない)
諒は短く息を吐き、深く瞼を閉じた。
こんなときは寝てしまうに限る――が、目が覚めてからまだ二時間も経過していなかった。
睡眠は十分すぎるほど取れているのだから、これ以上眠れるはずもない。
(……暇だ)
胸のうちでそう呟いたのと、電話の着信音がけたたましく鳴り響いたのは同時だった。
諒はそちらに目を向けながら、そのままぴくりとも動かずに音が鳴り止むのを待った。
やがて音は止まり、自動的に留守電に切り替わる。
『ただいま留守にしております。ピーッと鳴りましたらお名前とご用件をお話ください』
機械の告げるメッセージのあと、電話の向こうには数秒の沈黙が落ちた。そうして聞こえてきたのは、予想通りの人物の声だ。
『もしもし、あたしよ。いないの?携帯も繋がらないし……また忘れて出歩いてるんじゃないでしょうね。ほんっとにあんたって……』
彼女はそこまで一息に言い放つと、次いで大きなため息を零した。
「……何だよ」
言い返す声はひどく小さい。受話器は取ってはいないのだから、その声が相手に届くはずもなかったが、無意識に弱気になる自分に少し呆れてしまう。
そういえば、携帯は昨夜電源が切れてそのままだった。充電しなきゃな、と頭の隅で考えたけれど体は動かない。
『……とにかく帰ったら電話して』
彼女はそれだけ言うと、ガチャリと受話器を置いた。
再びの静寂が部屋を包む。
電話を無視したのは自分なのに、妙な孤独感を覚えるのは何故なのだろう。
諒は小さく溜息をつき、ごろんと横向きになって部屋の中を見渡した。
――我ながら、殺風景でつまらない部屋だと思う。
そう広くはないが狭くもないワンルームのこの部屋には、必要最低限のものしか置かれていない。
所詮は寝るためだけに存在するような部屋だ。その片隅で小さくなっていると、自分の存在すら何の意味もないような気がしてくる。
寝て、起きて、食べて。
ただこうして、無駄に生きているだけで。

(時間が勿体無い)

ふと頭に浮かんだその考えに、諒ははっとして瞼を開けた。
これだから暇なのは嫌なのだ。
無駄な思考を繰り返し、悪趣味な考えに囚われて。
諒はゆるゆると息を吐き、のそりと起き上がってベッドに腰掛けた。
そうしてカーテンの隙間から覗く外の景色をぼんやり眺める。
ビルの合間に見える空は、雲ひとつない青空だった。
「……」
ぼんやりしていると、じわりと汗が首筋を伝う。
冷房を止めたままだったことを思い出し、諒はもう一度リモコンを手繰り寄せた。
――が、手元に引き寄せたそれはテレビのリモコンだ。
諒は思わずむっとして、それを思い切り壁に向かって放り投げた。
瞬時にはっとしたが、後悔先に立たず、である。思わず目を眇めて壁にぶつかる音を待ったが、なぜかその音は聞こえてこなかった。
「……?」
諒は不思議に思い、瞼を上げた。
「なっ……!!」

「物にあたるのは良くない、と何度言えばわかるんだ?」

視線の先に立っているのは、今しがた諒が放ったリモコンを手に微笑む忍だった。
「……何しに来たんだよ」
低く訊ねると、忍は静かに口を開く。
「僕がお前に会いに来るのにいちいち理由が必要なのか?」
「べっつにー」
いいですけどね、と答えながら、諒は居心地の悪さを感じ、背中からどさりとベッドに倒れこんだ。
(いっそのこと不法侵入で訴えてやろうか)
そんなことを考えながら視線だけ動かして忍を見ると、彼はガラステーブルの上にリモコンを置き、その横に小さな紙の箱を置く。諒はベッドに寝転がったまま、「何それ」と訊ねた。
「これでも僕は人並みの礼儀というものを持ち合わせているんだよ。手土産のひとつくらい、と思ってね」
「は?」
「見てわからないか。ケーキだよ」
微笑んでそう告げる忍に、諒は一瞬固まった。
「……はっ?ケーキ!?ま、まさかお前が買ってきたんじゃ」
思わず反射的に身を起こす。信じられない思いで見つめると、忍は言った。
「他に誰がいるんだい?」
諒は絶句した。
忍がケーキ屋に行ってケーキを買ってくるなんて、想像したくない光景だ。
――いや、案外彼のことだから、それはそれで絵になるのかもしれないが。
諒はくしゃりと前髪をかきあげながら、つけそびれていたエアコンのボタンを押した。
暑さのせいで、頭もうまく働かない。
「何か用があって来たんでしょ。新しい仕事?」
だったらちょうどいい、と思った。
こんな退屈な時間との戦いはいい加減辟易していたところだから。
しかし、忍の答えは諒の期待を見事に裏切ってくれた。
「お前の顔を見に来ただけだよ」
さして表情も変えずにそう答える彼に、諒はしばし沈黙した。
「……それは新手の嫌がらせですか?」
「どこが?」
忍は不思議そうな顔でそう訊ねてくる。諒はわざとらしく、大きなため息をついてみせた。
これが嫌がらせでなかったら何なのだ。
彼がこういう性格だということは、嫌というほどわかってはいるけれど。
「僕も座っていいかな」
忍はそう言うと、諒が返事をするより早く隣に腰を下ろす。
諒はぎょっとして、一人分の距離を置いて彼から離れた。
(いったい何なんだ)
何が楽しくて忍と二人、こんな真昼間から肩を並べてベッドの上に座っていなくてはいけないのだろう。置かれた状況に落ち着かなくて、諒は背を丸めて小さくなった。
さっぱりわけがわからない。
いや、もとより彼の行動にしろ思考にしろ、自分が理解できる範疇のものではないのだけれど。
「たまにはこんな日も悪くないな」
部屋に満ちる張り詰めた空気を和らげるように、忍が不意に口を開いた。
「急に予定が変更になって、時間に空きができたんだ。どうしようかと考えあぐねていたところに、お前の顔が浮かんでね」
「……あのねえ。忍サマが急にお暇になったのはそれはそれは結構なことですけどね、俺は貴重なお休みまであんたに邪魔されたくないんですけど!」
「邪魔なら帰るよ」
すぐさまそう返されて、諒はぐっと言葉に詰まった。
「……べ、べつに……邪魔ってわけでは……」
独り言のように呟くと、忍はふわりと微笑む。諒はその顔を直視できず、小さく俯いた。
(……だから嫌なんだ)
結局いつも振り回されるのはこちらの方で、そしてその様子を面白がっているのがこの御主人様なのだから。
「今日は何をしていたんだ?」
ふいに、忍が訊ねた。
「……別に何も……。寝て起きてぼけーっとしてただけ」
正直に答えると、忍は無言でじっとこちらを見つめる。諒はぴくりと眉を顰めた。
「なんですか」
「不摂生な生活は感心しないな」
「アナタに健康について説かれるとは思いませんでしたよ」
――まったく、どっちが不摂生だか。
何度目かのため息を吐くと、忍は小さく微笑む。
「今日は何も食べていないのか?」
「あ?……まあ」
言われてみればその通りだった。時計の針はもうすぐ午後一時になろうとしていたが、今日はまだ何も口にしていない。
「だったらちょうど良かったな」
「え?」
「一緒に食べよう」
忍はそう言って、テーブルの上の箱を指差した。


***


キッチンから小皿とフォークを手に戻り、冷蔵庫から持ってきた麦茶をグラスに注ぐ。
生憎氷はないが、文句は受け付けない。
突然人の家に押しかけてきて、ティータイムを開こうという客人の方がどうかしているのだ。
小さなガラステーブルの上に皿を広げながら、諒は「開けますよ」とケーキの箱に手を伸ばした。
「この時間もまた、いずれは貴重なものになるのだろうね」
ふいに、忍がそんなことを口にした。
まるで「今日はいい天気だな」とでも言うように。
諒は箱に伸ばした手を止め、ゆっくりと彼を仰ぎ見た。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。僕に残された時間はそう長くはないからね」
「……」
忍の言葉に、どくん、と心臓が大きく跳ねる。
胸がぎゅっと締め付けられて、息が止まりそうになった。
「……悪戯に人の神経逆撫でるような事言わんでくれますか」
震える声で、それだけ言うのがやっとだった。
忍はそんな諒をじっと見下ろし、静かに言葉を続ける。
「僕は正直な気持ちを述べたまでだよ」
平然とそう答える忍の表情はいつもと同じで、何の変化も見られない。
諒は何も言えず、きつく唇を結んだ。

わかっている。
こんなことに、いちいち腹を立ててはいられないことくらい。

忍の言っていることは正しい。彼の言うとおり、近い将来それは現実になるのだろう。
けれど自分はまだ、それを認めたくはないのだ。
気持ちだけではどうにもならないことがあると、自分はとっくに思い知ったはずなのに。
(それでも、俺は)
諒は短く息を吐き、まっすぐ忍を見上げた。
「……お前が爺ちゃんになる頃には、これも笑い話になってるかもしれん」
ぽつりとそう告げると、忍は意外そうな顔をして、それから静かに微笑んだ。
「なるほど。それはそれで面白い話だな」
「俺が何のためにいるのかって話ですよ」
「何のためか聞かせてくれるのかい?」
悪戯っぽく答える忍に、諒は思わずテーブルの上にばたりと倒れこんだ――とその拍子に肘があたり、麦茶を注いだグラスが倒れてしまう。
「うああっっ!」
諒は慌ててグラスをもとに戻し、近くにあったタオルを掴んだ。
間一髪、テーブルの下に敷かれたラグは汚さずにすんだ。これは冴子が買ってきたものだから、汚すとうるさい。
(あ、あぶなかった……)
まったく、いきなり変なことを言い出すからこんなことになるのだ。
そう思って忍を睨むと、彼は心底楽しそうにふっと笑った。
「本当に、諒を見ていると飽きないな」
「あのね!笑って見てないでちょっとは助けようって気はないのですかね!」
「自分の後始末くらい自分でできないのか?」
「だから誰のせいでこうなったと!!」
「ああそうだ。何のためだったか、まだ答えを聞いていなかったな」
「ッ……知らんわ!!」
忍から目を逸らすように視線を落とすと、ふと彼の足元に目が行った。諒は大きく目を見開き、ぽかんと口を開いた。
(こ、こいつは!)
――呆れるというか、やっぱりというか。
「お前ね!うちは土足じゃないぞっ!!」
「ああ、そうだったのか」
「そうだったのかじゃないっっ!」
「何も言われなかったから、このままでいいのかと思って」
しれっとした表情でそう答える忍に、諒ははあああと脱力した。
「……ああそうですかそうですか私がわるうございましたっ!でもいきなり何の断りもなく人んちに入ってくるのもどうかと俺は思います!プライバシーの侵害ですよ!」
「驚かそうと思ったんだよ」
「フツーに来い!ピンポン鳴らして玄関から来い!普通はそうするものなのだからして次からそうしろっ」
「それはまた来てもいいということかな」
ああいえばこういう、というのはまさしく彼のためにあるような言葉だ。
結局何を言っても、彼に勝てるはずもなく。
「……もう好きにしてください……」
諒はまたも大きなため息をついて、がくりと項垂れた。
箱を開けると、中にはショートケーキがふたつ入っている。
どんな顔でこれを注文してきたんだか、と思いながら、諒はそれを小皿に乗せた。

『たまにはこんな日も悪くないな』

ふと、さっき忍が言った言葉が頭を過ぎる。
――素直に同意するのは気が引けるけれど。
諒はゆるゆると息を吐き、忍の顔を見て「いただきます!」と告げた。

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