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Little Liar (十九郎&夏江さん)

  小学校に通い始めて間もない頃はまだ、自分の瞳に映る景色をうまく処理することができなかった。誰の目にも等しく映るものも、そうではないものも、分け隔てなく十九郎の視界に飛び込んできて。映るままの光景を、そのまま受け止める。身体への危険を察知して、見るべきものと避けるべきものを分類し、的確な対処を行う能力をまだ持ち得なかった頃。

与えられたものを咀嚼せずに丸飲みをするように、無尽蔵に受け入れた世界に、悲鳴を上げるのは意識ではなく身体の方が先だった。それは、時に視野を歪ませる目眩として現れ視界を暗転させ、またある時には吐き気や呼吸困難といった形で異変を訴える。
そうした、身体から発される危険信号によって意識が途切れて、気がついた時には自宅のベッドに横たわっているという事は、決して珍しいことではなかった。

だから、重い瞼をゆっくりと開いて、清浄な空気に包まれた部屋の中の、よく見知った天井を視界に捉えて。

ああ自分はまた倒れたのか、と思ったのだった。


「気分はどう?」

そっと頬に触れる夏江の指先から、よく馴染んだ暖かい気が伝わってくる。体調を尋ねる声を向ける母の顔を、少し視線をずらして見つめ返すと、そこには普段と変わらぬ微笑みが浮かんでいる。
息子が突然倒れたと知らせを受け、迎えに赴き、すべての手配を整えて、今は自宅で看病をする、一連の騒動の疲れや、動揺を一切表に出すことをしない母親の表情。
また迷惑をかけてしまった、と十九郎は思った。これ以上の迷惑はかけたくない、とも思った。

だから『大丈夫』と返そうとして。
けれど出来なかった。

だ、という形に開いた口から、ヒュッと息がもれて、続きが言葉にならない。胸に何かがつかえているような、息苦しさを感じる。
思わず毛布の中で、手を胸のところに持っていって、ぎゅっと掴んだ。自分の手で新たに生み出した刺激が、少しだけ、息苦しさをまぎらわせる。今度はちゃんと声になるかもしれない、と十九郎は思った。

「…へいき…」

なんとか出た言葉は、あやまたず夏江に届いた。十九郎が伝えたい言葉も、それ以外のものも。
小さな声を聞いた夏江は、愛息子を見つめたまま、苦笑した。

「すぐにバレる嘘は逆効果よ、わかってるでしょう?」
「嘘じゃないよ…」
「そんなやせ我慢の強がりばっかり言ってると、あたしはもっともっとたくさん心配するわよ。おろおろして、取り乱して、お父さんや希沙良にも話して、大事になっちゃうかもしれないわね。それでもいいの?」
「…だめ」

きゅっと胸を押さえる手はそのままに、十九郎は答える。その仕草も、声も、顔色の悪さも、何もかもが体調不良を訴えているのに、この息子の言葉だけは嘘つきで強がりだ。いつも。

「じゃあ嘘つかないで素直になるのね?」
「……」
「十九郎には今、どこか苦しいところがあるのかしら。お母さんに教えてちょうだい」
「…どこも…」
「なあに、嘘をつくの? それとも正直に言うの?」
「……」
「電話、誰にしようかしらね」
「!」

部屋にあるコードレスフォンに手を伸ばす仕草をすると、毛布をめくって伸びてきた小さな手が、夏江の動きを遮るように腕を掴む。もう片方の手が、不調の原因であるのだろう胸を押さえたままであるのが、毛布が捲れた今では一目瞭然である。

(まったく、強情にも程があるんじゃないの)


「あたしの質問に答えてくれるの?」

それならお父さん達に電話するのはやめようかしらね。ぽつりとそんな助け船を出してやると、十九郎は、困ったような顔を浮かべる。それから、伸ばした手に少し力を加えて、口を開いた。

「…胸、が…気持ち悪くて…」
「そうね、さっきから毛布の下で、苦しそうにぎゅって掴んでたもの」
「…ごめんなさい」
「わかればいいのよ。…さ、手を少しどけなさい」

夏江の意図を理解したのか、十九郎は掴んでいた手をどける。同じ場所に、今度は夏江の手のひらが置かれた。
幼い息子の、小さな身体の、胸の上に手のひらを置くと、とくん、とくん、と脈打つ音が、普段よりも忙しなく響くのが、パジャマごしにもわかる。夏江は慣れた感覚で、意識を手のひらに集中させた。異常を知らせる身体の信号を、もう大丈夫だとなだめて、落ち着かせるように。もとの状態に戻ろうとする息子の回復能力を、そっと手助けする力を注ぎ込む。

妖気の気配はしないから、体調不良の原因は、単に余計なものが『視え』すぎた消化不良なのだろうと感じた。きちんと休めばじきに消える痛みのはずだから、このまま瞳を閉じて眠ってしまえば、朝がくるころには回復しているだろう。

しばらくして、癒しの手を翳す夏江の耳に、静かな寝息が聴こえてきた。繰り返される小さな息の音は穏やかで、苦しげな印象はまったくない。

「おやすみなさい」

捲れた毛布を整えてやり、あどけない顔で眠る愛息子を見つめながら。
夏江はようやく、ほっと息をついた。


Fin.

「輪をかけた土星ばか」(諒冴)

バカにつける薬はないっていうけれど。
バカのさらに輪をかけたバカには、もう何の手立てもないのかしら。

「冴子さん、好き」

上野駅のど真ん中で、こんな恥ずかしい台詞をいきなり言って。
離れたくない、好きだよ冴子さん、なんて抱きしめるのよ。
往来の人に邪魔じゃないの。
こんな大きな駅なんだもの、知り合いの一人や二人歩いてるかもしれないじゃない。
こんな恥ずかしい場面を見られたらどうすればいいの。
嫁入り前の若い娘捕まえて、こんなことしてるんじゃないわよ!
(…このバカも私と同い年だけど)

「大丈夫、嫁の貰い手がなかったら、俺が引き受けてやるから」

だから、もう少しこうしてていいよね。

その断定的な口調は何。
私に意向を聞いてるようで、その実やりたい放題のその態度は何。
私が、断らないとでも思っているの?

「なに突然色事づいてるのよ、バカ!」

ここを通る皆が、諒のバカさ加減を知ればいい。
そんな気持ちで私は叫んだ。

バカバカバカ。
そうよ、水沢諒はバカに輪をかけた土星バカなんだから!

その声は、想像以上に大きかったみたい。

「…冴子さんって、だいたーん…」

私を抱きしめた格好のまま、ひゅーと口笛を小さく吹いたバカは。
皆が見てるよ、と私の耳元で小さく囁いた。

周囲からの視線を痛いくらいに感じる。
呆れたような眼差し、何か恥ずかしいものを見たような表情。
…わたしの心とまったく同じ顔が、私の視界に映る。

彼らと私が違うのは、通行人たちの呆れた眼差しの矛先に、私も含まれていること。
理不尽だわ!

「世に言うバカップルって奴ですね、俺たち」

ははは、と笑う目の前のバカの腕から強引に抜け出して。
私はキッと睨みつけると、全体重をかけて思いきり、その足を踏みつけて。

咄嗟に足を抱え込む諒をちらりと一瞥すると、踵を返してすたすたと改札を潜り抜けた。

バカにつける薬はないって言うけれど。
バカに輪をかけた土星バカには、何もしないわけにはいかない。

「冴子さーん」

改札の向こうから、よれよれと聞こえてくる、情けない声を耳に留めると。
いい薬よ、と私は小さく微笑んだ。

Fin.

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萌茶ログ

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