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桜の刻3・桜一片(忍+冴子)


遠慮がちに響く小さな音に、斎伽忍は、彼の妹である七瀬冴子と置かれたばかりのカップに視線をめぐらせた。それはカップを見る、という一見普通の行為でもあり、また忍にとっては己の内にある幻想の空間から現実の視点へと意識を戻すための行為でもあった。透き通る朱の色彩を放つ紅茶から、繊細なつくりのカップに良く似合う、品の良い香りがたちのぼる。
「ありがとう」
「いえ・・・」
穏やかな声で告げる感謝の言葉に対し控えめな声で応えた冴子は、カップをさらに二つ、テーブルの上に置いた。
それはとても自然な仕草だったから、冴子はその行動の矛盾に気づいていないのだとわかる。
「冴子」
笑い混じりの声を放つ忍の表情には、面白いものに興味を持つ印象がうかがえて。
けれどもそれが何かということには気づきようもなく、椅子を引き寄せ腰掛けながら、冴子は素直に疑問を口にした。
「はい?」
「カップが1つ、多いんじゃないかな」
忍に指摘されて冴子はあっと小さく声を漏らす。
言われてみれば、確かにそのとおりだ。
この屋敷に今いるのは、冴子自身と忍の二人だけである。
お茶を出す必要のあるもう一人の人物なんて、此処には存在しないのに。
「・・・また間違えちゃったわ・・・いつも、3人分のお茶を用意していたから・・・」
慌ててカップを下げようとする冴子に、忍はいいよ、と制止した。
「此処に存在しない客にこうやってお茶を捧げておくのも、また風流だと思わないかい、冴子?」
「・・・アイツの場合、招かれざる客といっても過言ではないですけれど」
あいつと呼ばれる対象が誰なのか、即座に解釈できるけれど、冴子のキツい口調に忍は唇の端を僅かに上げて微笑した。
「・・・へえ?」
いたずらっぽい瞳を冴子に向けると、冴子は思わず困ったような表情を返す。
「諒が嫌いなのかい?」
「そんなわけじゃ・・・!」
思わず即答している自分は、忍にどんなにか、不自然に映っているのだろう。
頭の片隅では冷静に考える自分がいる反面、この状況をどう切り抜ければ良いのかと動転している自分も、冴子の中には同時に存在して。
そんな混乱した状態を反映するかのように、言葉に出した返答はしどろもどろなものだった。
「でも、今回呼んでないし・・・大体いつも冷めた目をしてて…そう、呼んでも難癖つけたりして、結局は来る人じゃないし・・・」
言い訳の言葉を思いつくままに喋る冴子の頬はいつもよりわずかにだが上気している。それは白を基調とする桜の花びらの一部分が、ほんのりとピンク色に染まっている様を連想させる。
妹の可愛さを堪能した後、忍はやんわりと冴子の言い訳を反駁した。
「お前には言っていなかったけれどもね、諒を呼んだよ。もうじきここへ来るだろう」
時間を指定しているわけではないが、電車の便の悪いこの場所へ来るとなると、もう近くへ来ていなければおかしいからね、と忍は続ける。
「…諒が、来ると言ったのですか?」
昨年の夏の悲劇から半年以上経過する今も、まだ社会と再び関わることに躊躇している印象を受ける水沢諒。
それはあまり外へ出ようとしない彼の行動からも冴子には容易に予測できていた。
その諒が、忍の指示とはいえ…否、他ならぬ忍の指示で此処まで来るということが、冴子には信じられなかった。
「いい加減お前も答えを出すときだと諒には告げた。此処に言いに来い、とね。」
忍は紅茶を一口、音をたてずに口に含み、カップを静かに置いた。
テーブルに置かれた僅かな振動で、朱色の液体がゆらゆらと渦を作る。
「あの子も随分と変わった…再生した、とでも言えばよいのかな」
ふっと微笑を浮かべながらの、独白のようでもあり、問いかけのようでもある言葉。
同意を求められているような気はしたけれど、冴子には出すべき言葉が見つからなかった。
彼の言う『再生』の意味を、きちんと捉えることができなくて。
「まだ未熟な点が多いことは認めるよ。だが、現実に瞳を向ける時間は以前よりも格段に増えた。」
今度はわかりやすく、噛み砕いた言葉で告げられた言葉に、冴子は納得の意を表することができた。
「ええ」
答えながら、冴子はもうじき来訪するという水沢諒を思い浮かべた。
初めて見た姿は、意識を失った抜け殻のような存在で。
その次には、忍に対して悪意の塊をぶつけるために生きているかのような、むき出しの刃のようだった彼。
その彼が、秋を見送り、冬をやり過ごし、そして今春を迎えるその過程で、『静か』な印象をもつようになってきた。
その瞳は決して穏やかなものではなく、凍てついたものであれども・・・彼の瞳は以前のように何も映していないのではなく、彼の捉える悪の化身たる忍のみを映すのではなく。
・・・僅かにずつはあるが広い世界を視野に入れだしている、冴子にはそう思えた。
「きっと、少しずつ、受け入れ始めているんだと思います。・・・現実を」
それはまるでリハビリのように、一歩一歩石橋をたたいて渡るような慎重さではあるけれども。
口をついて出た冴子の言葉に、忍は軽く頷いた。
「そろそろ、諒も選択する時期だ。一度崩壊させた人としての営みを諒自身で学ぶか、それとも・・・こちら側の世界で生きていくか」
それは、一般人として生きていくか、それとも術者として忍の許にとどまるかを意味するのだと、冴子は知っている。冴子もまた、こんな風に二択を兄に迫られたことがあったからだ。
「諒の生き方は彼自身が決めるべきだ。けれど・・・あの子にはつい、期待してしまうね。僕もなぜあれに執着してしまうのか、自分でよくわからない」
「期待、ですか?」
目の前の兄が、諒に期待するもの。
それが何なのか、冴子にはわからなかった。
「未発達な・・・あの未熟さに、なぜか惹かれてしまう。自由なはずの世界で、それでも縛られた者が解放した悪しき力、そしてその後の生き様に。」
「・・・・・・」
どう相槌を打てばよいのかわからず、冴子は言葉を返せない。
「僕にはできない所業だからね。力を解放するなど。そんな、楽なことをしておきながら、死なせてたまるかという気持ちも・・・少しは僕にもあったのかもしれないな」
忍の微笑は、そして紡がれる言葉は、僅かに自嘲めいたような口調で。
「忍様」
冴子はつい、兄の名前を呼んでいた。
その先に告げる言葉が浮かんでいたわけではないけれど、ただ、何かを彼に訴えたい、そんな思いをこめて。
妹の真摯な瞳を見て、心配ない、と忍は優しく言った。
何が、とは言わなかった。
そして発せられる言葉。
「諒・・・どう動く?」
はらはらと舞い落ちる桜の花びらを手に取れるか否かの瀬戸際で。
一片の小さな存在に意思を持たせ、その決断を待つ姿は、審判を受ける前の厳かな者の態度のようでもあり、ゲームの行方を待つ楽しげな感覚でもあるように冴子には見えた。
『待つ者』とは、こんなにも覚悟を決めた超越者のようであるのか、と思った。
「冴子はどうする?今なら、諒と同じように引き返すことも可能だよ」
ふいに思っても見なかった言葉を投げられ、冴子は目を見開いた。
「僕は、お前の幸せを願っている。」
冴子には、忍の静かな双眸が映った。
「私は。」
「…前に「僕に付いていく」といったお前の言葉は、兄を思う妹の優しさだと、今なら僕も自然に思えるよ」
妹を慈しむ兄の柔らかな言葉。
彼の浮かべる静かな瞳を、冴子は悲しいと思った。
「私の心は、あの時と少しも変わっていません」
穏やかな、悲しいその瞳を埋めるものが自分であればいいのに、と冴子は心から思った。
「私は、忍様のお側で、貴方の近くにいられるだけで、幸せです。」
きっぱりとした断固たる言葉が、決意に満ちた瞳が、彼に届けば良いのにと思いをこめて。
「だから。冴子を、お側に置くことを、許してください。」
挑むような冴子の目を受けて、忍はその表情に嬉しさをこめた笑顔を返した。
「許すも許さないもないよ。お前は、冴子、『僕の妹』だ。側にいてくれて、うれしくないわけがないだろう」
笑みのかわりに少しだけ細められた忍の瞳。
多少現金かもしれないが、細められた分だけ、見える瞳が少なくなった分だけ、受ける悲しみも減ったように冴子には思えた。

開け放した窓から届けられた春の風が、ふわり、と頬をなでた。
風に乗ってひとひらの桜の花びらが、忍のものでも冴子のものでもない、もう一つのカップの中にはらりと舞いながら落ちた。
ゆらめく朱の上に、違和感なく浮かぶ淡い色彩。
それは、待ち人がもうじき来る知らせのようでもあり、人を待つ彼らへの、春からの粋な贈り物のようでもあった。
「桜は好きかい」
時の流れにその声音を乗せて、冴子の耳にそれは届いた。
「忍様は?」
冴子は答えではなく、逆に問いかけた。
「僕は好きだよ。」
忍は即座に答えるとカップの中で揺れる花びらを、慈しむように見つめた。
「私は・・・・・・わかりません。だって・・・それは・・・」
私の名前だもの、と言いかけて言葉がつまる。
桜。
それは冴子の名でもあり、同時に格式を重んじる『実家』が彼女から自由を奪い拘束する呼称。
自分に自信がないことなど、冴子がそんなことを考えているなど、この兄に気づかれたくない。
「お前は、『冴子』だ。僕が名づけた、僕の妹の名だ。」
「…はい」
気づかれなかった、という気持ちと共に、冴子の思いなど安易に見破られているのだと冴子は気がついた。
「この名前を大切にしてくれると、兄孝行になるよ」
「勿論。冴子に名前を下さったこと、本当に感謝しています。」
ふわりとした笑顔と共に言葉を返し、冴子は席を立った。
お茶のおかわりを持ってきます、と言って2つのカップをお盆に載せ、部屋を出て行った。
桜の花びらゆれるカップは、あえてそのままにしておいた。
「桜は、散るからこそ美しいというけれど・・・果たしてそうかな?」
独白して、忍はもう一度カップに目をやり、それから窓の外の桜の大木に視線を移した。
「桜の価値は、毎年その花を咲かせるために生き延びる強さにもまた存在するとは思わないか」
誰に言うでもない、問いかけ。
返答などいらない問いだから、これでいいと忍は思った。
華やかで、儚げで、けれども変わらず美しく生き続ける性質を持つ「桜」という花は、やはり冴子に良く似合っている。
彼女の望まないことだとはわかっているけれども、それでも忍には良い意味でそう思える。
(今はまだ私の傍に在る、最高の桜)
心の内で思いながら、妹の名前を口にする。
「冴子。」
桜に愛された娘よ。
「どうか、幸せに」
それが、願い。
桜にかける、ただ一つきりの、願い。





fin

光ある世界(諒+亮介)




終焉を見た
静かだった
拍子抜けするほどにあっけないその光景は
目の前を一瞬で駆け抜け
その衝撃を瞳に焼き付けさせる
「光」のようだった




そこに行き着くまでの長い困難な道のりなど何も意味もないかのように「終わり」は訪れ、続く『日常』はこの手に戻ったけれど。それが全てへの終わりだなんてことはなくそれまでの日常も非日常も、手にした今には同じように影響している。
すべてがつながっている。
それはきっと、亮介だけではなく、誰にとっても。


コンコンと窓を叩く音に、崎谷亮介は目の前のキャンパスへの集中を解き、音のする方へと視線を向けた。午前0時をまわるこの深夜に、それも窓をノックする人間など、亮介は1人しか知らない。光を遮断する厚めのカーテンを開くと、そこには思ったとおりの人物がいた。窓のロックを外すと、その人物−−−水沢諒は軽い口調で夜の挨拶を述べた。
「こんばんわー」
なれた仕草で汚れたスニーカーを脱ぎベランダに転がすと、諒は軽い足取りで部屋の中に足を踏み入れた。
「相変わらず」
一通り部屋を見回して、諒はそんな感想を述べた。
「戻ってからも、部屋の模様替えとか特にしてないから」
亮介は、諒と共に暮らしていたアパートを引き払い実家に戻っている。
昨年の8月に家を飛び出してから1年強の家出期間を経て戻った自室。
両親からは少なからずの叱咤と、同じくらいの安堵をもらい、今に至る。
それから2ヶ月程たった今も両親の態度はまだよそよそしさを見せているけれど、それも次第に薄れていくだろうから、亮介はあまり気にしないようにした。壊れた関係をたやすく修復できるなんて手放しに思えるほど、亮介は子供ではなかった。
「諒は今、新宿?」
アパートを共に引き払ったとき、諒は一度広島に帰った。戦いに一応の決着がついたことを家族の墓前に知らせるのだと、言葉を置いて。それから諒はすぐに東京に戻ることはせず、いまだ発生する事件を追って、九州へ移動したと冴子に聴いたのは半月ほど前のこと。諒自身からは何の知らせも無く、たった今彼が姿を見せたことで、東京に戻ってきたことを知ったのだった。
「うん。だから散歩のついでに、亮介に帰還の挨拶をしようと思ってさ」
そう言いながら、諒の手が亮介の部屋の冷蔵庫に伸び、中から缶のポカリスエットを取り出した。いただき、と悪びれなく言うと、プルタグを歯で器用にこじ開けた。ごくごくごくと音をたてながら缶の半分ほどを一気に飲むと、諒は軽く溜息をついて亮介の傍まで歩み寄り、右隣にどさりと腰を下ろした。
「何書いてんの?」
キャンパスに散らばる様々な色彩。
それを見つめた諒には、亮介が何を描こうとしているのか、判断がつかなかったようで。
己の画力不足かな、と亮介は思う。
「まだ、完成してないんだ」
何を、という問いかけには応えずに、亮介はそんな言葉を返す。
答えを避けたということに気づいたのか、諒からは今度は異なる質問が発された。
「大学、どうすんの」
話題が変わった事に正直安堵しながら、亮介は答える。
「…とりあえずは、文系志望で」
右手に絵筆を持ったままであることに気づき、パレットの上に置いた。
「絵は?」
「絵は続ける。美大についてはもう少し考えてみるつもり」
趣味のまま絵を続けていくのか、それとも将来のことを考えながら描くべきなのか。
その答えは、まだ亮介の中では明確になっていない。
「今じゃなくたって、その気になれば美大には行けると思う」
答えがきちんと出れば、行動にだってたやすく移せるはずだから。
今は、もう少しだけ考えていたい、というのが亮介の正直な気持ちだ。
「時間はきっと、たくさんあるんだ。」
それが、亮介が今出せる、ギリギリの答えだった。
「そっか」
かみ締めるように紡がれる、決意にも似た親友の言葉に、諒はそんな一言を返した。
「諒は?」
逆に問われて、諒は手の中の缶ジュースを弄びながら、あっさりと答えた。
「俺は理数系よ。都内の大学をいくつか受ける予定だけど、どうだろうな。すぐやめちまうかも」
「落ち着くのか」
これまで斎伽忍の命令で全国を行脚していた諒が、一箇所に落ち着く、というのに亮介は少し違和感を感じた。
「それもまだ、よくわからない」
けれども、諒が日本中を回っていた理由は、『非日常』の事情によるところが多く、一応とはいえ決着がついた今、もう彼が妖者退治の専門家として各地を回る必要も、なくなっていくのかもしれない。これから先、彼の特殊能力が必要とされる事態は確実に減っていくのだろうから。
「ただ…」
ぽつりと言葉を切って、諒はつなげた。
「広島の大学を少し、受けてみようかと思って。受かったって行くかどうかは迷ってるんだけどさ。なんとなく」
まだ考えあぐねていることを、口にすることで事実にしようとしているかのような印象。
「そっか。」
彼の心中を無粋に探るようなことはせずに、亮介は短く言葉を返した。
「うん」
諒はそう言うと、再びポカリを口に運んだ。
言葉が無くなる。諒との沈黙の時間も決して居心地の悪い空間ではないけれど。口にしたい言葉が生まれて、亮介は口を開いた。
「昔、俺の絵が、人の見えてないものを見て描いたみたいだって言われたことがあって」
「ああ…」
随分と前にも亮介が同じような事を話題に出したことがあったな、と古い記憶を呼び戻す。
「それを聞いて、俺は自分がひどくズルいことをしてる気がしてたんだ」
缶に口をつけたまま、諒は顔だけを亮介に向ける。
「だけど、よく考えたら、そんなことはないんじゃないかと思って。誰一人として、自分と同じ景色を見てる人間なんて、いやしないんだなって。…そう、たとえば、ここから俺と諒が冷蔵庫を見るとしたって、見てる位置も視点も、物に対する捉え方も、少しずつ違うみたいに。」
穏やかに語る亮介と、視線が合った。
「だとしたら…俺は俺の感覚を、そこから表現する絵を、自分の個性だと思ってもズルい事なんてないんじゃないかと思って。」
どうなんだろう、と遠慮がちに問いかける亮介の瞳を受けて、諒は口につけたジュースの缶を床に置いた。
むむむむむ、とわざとらしい声を発しながら両手を組んでみる。
しばらくその姿勢を崩さない諒に呆れ顔を向ける亮介を捉えて。
それから、諒は組んだ両腕をほどいて、左掌を亮介の頭に乗せてがしがしと撫でてみせた。
「えらい!」
そんな言葉と共に乱暴に頭を掻き回す手を、苦笑交じりの「やめろよ」という声と共に引き剥がし、その腕を掴んで亮介は続けた。
「非凡な人をたくさん見たよ。そんな中で、俺だけが何もなくて、普通でと凹んだ時もあって。」
けれど、と亮介は言う。
「だけど、俺の普通が他人にとって非凡であること、他人にとっての普通が俺にとってはそうでないことも…そして、そんな違いが日常だって、おかしくないのだと…わかったから」
諒は、親友の表情に微笑が浮かぶのを見た。
「お前も含めた、皆がいたから、そう思えた。…すごく良い経験をしたと、今は思う」
心からの、正直な、言葉と表情。
それだけで、満たされた。
「…ありがとう」
諒はぽつりと言った。
何に対しての、と言葉にはしなかった。
知り合ってからの、様々なこと。
傷つき傷つけ、時には敵対したりもして。
普通に友情を育めたならば良かったのにと悔やむこともしばしばだった、過酷な体験も。決して良いばかりではなかった今までの月日が、全てが、今の亮介が思い至る確信の糧となっているのならば。
それだけで、救われる奴はいる。
…自分を含め、決して自分だけではない人間が。
そのことへの、礼のつもりだった。
亮介には伝わっているだろうか。
「ありがとう」
届いて欲しい、そんな気持ちから、諒はもう一度感謝の言葉を繰り返した。今はもうない『存在』への祈りと共に、かの許へ先程の亮介の言葉が届けば良いと、願いながら。
諒の礼に対してどんな言葉をかけるべきか、亮介は悩んで。謙遜の言葉のかわりに、先ほど避けた絵についての問いかけの答えを、口にした。
「光を、描きたいと思ってるんだ」
諒に向けていた視線を、キャンパスに移す。
いまだ形定まらず、様々な色彩のみをのせているキャンバスを、挑むように見つめる。
「俺の捉える光、それに包まれる世界…それをこのキャンパスの上に、満足に表現できたら…素敵だとそう思う。」
光。
それは、心に宿る光でも、存在として語られる光の化身としてでも良い。
亮介の捉える光を、形にして人に伝えることができたならば。かの存在への亮介の想いを、そのイメージを、衝撃を、亮介自身の心だけに留めておくことなく、誰かに伝えられるかもしれない。
そんなことを、亮介は思った。
「…できるよ、亮介なら」
亮介の言葉をかみ締めるように聞いていた諒が、ゆっくりと言葉を口にした。
その言葉は亮介の中にゆっくりと浸透していく。
優しい感情とともに、エールとなって。
「いつか、諒にも見せるよ。…見せられるようなものができたら」
亮介は親友の励ましに、そんな言葉を返した。
しばらくの沈黙を経て、諒はぽつりと言った。
「…待ってるよ、いつまでだってさ…」
そんな言葉を発した諒の頬には、一筋の涙が伝っていた。




fin

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