大切なものを自ら壊したとき
自分の手がとても冷たくなっているのに気がつく
緊張し、震え、血の気のひいた、手
その冷たさを実感した時に、思う
「また、壊してしまった」と・・・
諒が額に触れる暖かさを感じて目を覚ますと、そこには同居人である崎谷亮介の掌があてがわれていた。
「あ、おはよう」
亮介の安堵した声を聞きながら、諒はゆっくりと瞳を開く。
「・・・はよ」
決して寝起きは悪くないはず・・・なのだが、今日は体がやけに重い。
口を開き、声を出すだけのことにも疲労を感じる。
「随分とうなされていたみたいだから、ちょっと心配だったけど・・・熱はないみたいだよね」
よかった、といいながら亮介は掌を額から離した。
「うなされてた?」
「うん、かなり。・・・何かキツイ夢でも見たんじゃないのかな?」
夢・・・。
うなされる程の、つらい夢?
諒自身には覚えはないが・・・。
「さぁ・・・どうなんでしょうねぇ」
亮介に返すようでもあり、独白のようでもあるその発言に、亮介は大丈夫だよ、と言った。
「夢なんてそうそう覚えてるもんじゃないし、きっとたいしたことなかったんだよ。」
「ま、別に気にしてないけどね」
そう、別に気にとめることでもない。
夢とは、普通日常に介入するものではないのだから。
「麦茶でも持ってこようか」
亮介は立ち上がりかけ・・・諒に腕をグイ、と引っ張られて体勢を崩し、畳の上に座りこんだ。
「・・うわっ。ちょっと諒、一体・・・」
慌てる亮介の顔を見て、諒はにんまりと笑う。
「お茶の用意は不肖水沢の役目、ということで。亮介君は座ってお待ちくだされ〜」
そう言って諒は立ち上がり、たいして距離の離れていない台所へと向かった。
「みっねら〜るむ・ぎ・ちゃ☆」
と口ずさみながら冷蔵庫を開け、麦茶を取り出した。
向かいにある戸棚から片手で器用に二つのグラスを手に取り、麦茶を注ぐ。
「諒」
部屋から聞こえてくる亮介の声に、諒は普通に反応した。
次の言葉を聞くまでは、普段と変わらずに。
「なぁに〜?麦茶じゃいやだって?あとは牛乳と青汁くらいしかないけどねぇ・・・」
「そうじゃなくて!」
亮介ははぁ、と溜息を一つつきながら、言った。
「・・・さっきの諒の手、すごく冷たかった」
冷たい手
血の気の引いた、手
ツ・メ・タ・イ・テ
何かを、壊した後の、手・・・
ガタンッと音がした。
続いて、ガラスの割れる音が響く
「諒!?」
亮介が慌ててキッチンに走り寄る。
床には、無残に砕け散ったガラスの破片と、零れた麦茶が散乱していた。
「諒、一体何が・・・」
床の惨状から、同じくキッチンに立ち尽くしている諒へと視線を上げていき・・・ハッとする。
諒の手が、震えていた。
とても小刻みに。
「手、どうかしたのか?」
諒の手に触れる。
強張ったその手は、一切の熱を奪われたかのように、恐ろしいほど冷ややかだった。
そう感じた次の瞬間、亮介の手は振り払われていた。
「・・・ッ・・・」
掌に訪れる刺激に、反射的に顔をしかめる。
その声を聞き、諒はハッと我に帰る。
「あ・・・ゴメン亮介・・・」
声よりも表情全体で露骨に謝罪する諒に、亮介は苦笑した。
「別にいいけど・・・どうしたんだよ?」
「・・・ちょっと考え事してて、手元にまで頭が回らなくなっちゃってさ。ホント何でもないから、ゴメン」
そう言うと諒はタオルをとりにキッチンから出て行った。
亮介は、その先を言及しなかった。
『何でもない』なんて、嘘だとは一目瞭然だけれども。
その先の追及を、諒が全身で拒絶しているように見えたのだった。
『諒の手、すごく冷たかった』
六本木の街を、彼の雇用主のマンションを目指して歩きながら、諒は先ほどのことを思い出していた。
亮介が言った何気ない、彼の感じたままの言葉は、諒に夢を思い出させるきっかけとなった。
(冷たい手・・・)
夢の中で、自分は見つめていた。
とても冷たい、人のものとは思えないような自分の手を。
そんな彼の周りには、数多の無残な骸が放置されていて。
その骸は、明らかに自分の知っているもののなれの果て・・・今まで自分が壊し、屠りつづけてきた、物や人の末路。
それが自分の足元に、まるで自分が生きるための供物のように、捧げられていて・・・。
その中に、諒は一人立っていた。
他には誰もいない、ただ一人きりの、空間。
その中で、漠然と思っていた。
(暖かかったものを冷たくしたのは、俺)
人の命も、関わりも。様々なものを、非情に、冷酷に、切り捨ててきた。
かつては暖かかったはずの、今は冷たい骸たち。
それらの熱は、すべて、自分が奪ってきたもの・・・。
(冷たくなったモノと、俺の手とでは、どちらが冷たいのか)
ふと思い立ち、諒は傍にある骸の一つに、そっと手を触れさせた。
そうすれば、わかる―――。
熱を、畏怖する自分がいる。
暖かさに触れると、自分にもそれが浸透していくように感じるから。
自分にも、心地よい暖かさを手に入れることができるのだと、思えるから。
けれども、同時に。
暖かさに触れると、それを感じることによって自分の冷たさを否応なしに実感させられる。
自分には、心地よい暖かさを生み出すことができないのだと、思い知らされる。
自分にないもの
手に入れたいもの
そういったものを、自分は奪って生きてゆくのだろうか
今この手が冷たいのならば、
自分は奪取に失敗したのだろうか
今この手が暖かいのならば
自分はこの暖かさを手に入れるために、一体誰の熱を奪ったのだろうか
触れた骸の冷たさを、感じるその瞬間。
額に触れる暖かさを感じ、諒は夢から覚めた・・・。
907号室の住人は、リビングに置かれたソファで、本を片手にくつろいでいた。
「やあ、よく来たね」
穏やかな笑みを端正な顔に浮かべ、部屋の主は言葉を投げかけた。
「来たくて来たんじゃないけどねぇ。・・・ってーかアンタ、いい加減どうしようもない用件で呼び出すのやめてくれませんこと?こっちだってそうそう暇な身の上でもないもんでね」
「どうでもよくはないさ。『雇用主の暇つぶしの相手をする』のも立派な仕事の一つだろう」
「・・・で、今日はどんな暇つぶし?」
投げやりな口調。
「最近は手相に凝っていてね。丁度いい、諒のも見てあげるよ。」
「丁度いいって・・・それを目的によびだしといてよく言う・・」
ブツブツいいながら諒は手を差し出した。
「もっと掌を広げてくれないと診断しにくいよ」
そう言って忍はそっと諒の手に触れ、手を広げさせた。
ひんやりした感触が、諒の掌に伝わってくる。
自分の手よりも、冷たい温度の、手。
「お前は・・・冷たいな」
ぼそりとつぶやいた言葉に、忍は興味を持ったようだった。
「悲しいな。僕はこんなに諒のことを思ってやさしくしているのにね。親切心が報われない、とはこのことを言うのかな」
「・・・じゃなくて、お前の手。まるで、熱を持っていないみたいだ」
脱力感を味わいながら諒は話題を修正する。
忍は、あぁ違うのか、安心したよ、と満足げに笑った。
「そうかな。諒の手よりは、冷たいんだろうけれどね」
「・・・いつも、そんなに冷たいのか。」
「いつも通りだよ。諒とは明らかに温度が違うね。これも大人と子供の差、というやつかな」
「・・・俺に、暖かさはあるんだろうか。お前が感じる俺の手のぬくもりは、本当に俺のものなのか」
「難しいことを言う」
忍はそう言うと、ゆっくりと諒の手を離した。
「自分の暖かさを保つために・・生きていくために、今度は何を犠牲にするんだろうかと、考えていた。もしかしたら・・・俺は・・・亮介や冴子を、この手で・・・」
言葉につまる。先ほどからずっと考えていて、けれども認めたくない言葉を。
口に出してしまったら、それは真実となるかもしれない・・。
諒は自由になった手で握りこぶしを作る。
そんな諒をしばらく見つめ、忍はふっ、と微笑した。
「人間は恒温動物だよ、諒」
ハッと我に返ったかのように、諒は顔を上げる。
笑みを含んだ忍の顔を、じっと見つめる。
「どんな人間であれ、生き抜いていくための暖かさはあらかじめ備わっている。それは肌で感じられるぬくもりであったり、心の内にあるものであったり、様々な形をしているけれどもね。『熱を奪わなければ生きていけない』人間なんてものは、そうそういるのものではないよ」
「・・・・・・」
「逆に、人には『冷酷な面』も必ず存在する。暖かさを保つ機能しかそなわっていないのならば、人はどこまでも熱を上昇させていくだろう。あまりの高温に耐えられるほど、人間は強い生き物でもない。どこかで、上がりつづけるものを、冷まさなくてはいけない。・・・お前が人間として此処に存在しているということは、暖かさと冷たさを同時に持っている、という証明でもあるんじゃないかな。」
「そう・・・思っていいのか」
「まぁ、でも、普通はそれを無意識に機能させて生きるものなんだけれどね。諒はまだ、そこまで人格形成が出来ていないということかな。」
「・・・おい・・・」
なんだか嫌な予感がする。
こういう発言を始めた時の忍は・・・本当にタチが悪い、そんな予感。
「まったく、世話が焼ける」
大げさに溜息をついてみせる。
それが『わざと』であることは明白だ。
「あのなぁ・・・」
げんなりした諒とは裏腹に、忍は実に満足げな表情で、さらなる言葉の攻撃を繰り出した。
「いい加減僕は保護者の任から解放されたいんだけれどね、諒」
「誰が保護者だ・・・」
つぶやいた諒の言葉は、あっさりと忍に無視された。
「で、先ほどの手相だが」
忍ははくすりと笑って、言った。
「なかなか苦労性な人生を送るみたいだよ、諒」
「諸悪の根源が何を言うかね、まったく・・・」
「それは心外だな」
「心外でもなんでもホントのことだろうが。・・・あぁなんか喉渇いたな。何か飲み物貰うぞ」
自分的に不利な話題を無理矢理終わらせる目的も含め、諒はキッチンへと向かった。
冷蔵庫の中を開け、中身を吟味する。
おそらく冴子によって作られたのだろう、麦茶の入ったボトルを見、先ほど自分が飲み逸れたのを思い出した。おもむろに麦茶を取り出し、棚に丁寧に陳列されたグラスを手にとって注ぎ込み、一気に飲み干す。胃に向かって嚥下する冷たさを感じ、諒は小さく溜息をついた。
どうやら、冷蔵庫のなかの飲み物に冷たさを感じられるほどには、自分は暖かいらしい・・・。
それは人間の身体をもっている以上自然な現象として訪れるものであるが、それでも諒は安堵する。
「諒、僕には杜仲茶を頼むよ。」
リビングから投げかけられる、人を人とも思わぬコキ使いようの雇用主から発せられる、言葉。
「麦茶で手を打ちません?」
それならすぐに出せますけどね、と続ける。
しかし、の問いかけはあっさりと却下された。
「手間はいくらでもかかって構わないよ。そう、時間はたっぷりあるんだしね。」
実に涼しげなその声を聞き、諒は心底嫌そうな顔をした。
やかんに水を入れ火にかけながら、一人ごちる。
(やっぱり、一番冷血なのは忍。もう決定。)
そう心の中で確信したその直後、斎伽忍はくすりと笑った。
だが、キッチンにいる諒がそれに気づくことはない。
それが果たして彼にとって幸福なのか、不幸なことなのかは・・・ただ一人を除いて、誰にもわからないことである。
fin.